【UAP特集】宇宙人に「地球の危機」を告げられた男|松村雄亮 円盤コンタクトの全記録

『岩戸開き』第26号の特集は「UAPディスクロージャー」

岩戸開き第26号 表紙画像

2026年8月21日発売の最新号(第26号)は、UFO議連や研究者・識者による、情報開示と人類の意識変容についての多角的な視点をお届けします。

この記事で分かること(要約)
  • 人物:松村雄亮氏。日本の初期UFO研究団体「宇宙友好協会(CBA)」の中心人物
  • 時期:1959年7月〜8月
  • 出来事:謎の女性との遭遇に始まり、最終的に円盤に乗り込んで母船を訪れ、宇宙人から地球の未来に関するメッセージを告げられた
  • 結末:このメッセージを新聞発表しようとした松村氏らを、宇宙人自身が「使ってはいけません」と制止したとされる
  • 位置づけ:目撃談ではなく「コンタクト(接触・交信)」に分類される、CBAの活動史の核心部分

UFOを「見る」ことと「乗る」ことの間にある、決定的な違い

これまで紹介してきた瀬戸内海UFO事件のような目撃事例は、あくまで「未確認の物体を見た」という報告だった。しかし日本のUFO研究史には、それとは全く次元の異なる記録が存在する。円盤に招き入れられ、宇宙人と直接言葉を交わしたとされる「コンタクト事件」である。

その代表例が、1959年に宇宙友好協会(CBA)代表・松村雄亮氏の身に起きたとされる一連の出来事だ。UFO研究者・天宮清氏は著書『日本UFO研究史』の中で、この記録を「CBA内部で何が起きていたか」を伝える一次資料として詳しく取り上げている。

前兆:半年続いた頭痛と、謎の通信音

コンタクトの本番に至るまで、松村氏には長い「前史」があったという。

1959年1月、松村氏は自宅上空を旋回する円盤状の物体を撮影した。当初は偶然の産物だと考えていたが、その後も家族と共に数十回にわたり同様の物体を目撃することになる。

同年7月、最初のテレパシーらしきものを受信して以降、松村氏の身には次々と不可解な現象が起きた。夜半に目を覚ますと部屋の窓の外がピカリピカリと発光している。トイレに向かう途中、奇妙な唸り音とともに円盤が飛び去るのを目撃する。そして何より深刻だったのが、原因不明の頭痛だ。市販薬を試しても一向に効かず、やがて耳鳴りとともに、モールス信号のような通信音までも聞こえるようになったという。この状態は約半年間続いた。

3人の女性、そして「キャップ」との遭遇

1959年7月10日深夜、横浜・桜木町駅に降り立った松村氏は、人通りの少ない道で3人の女性とすれ違う。その一人が微笑みかけたように見えた直後、ふと振り返ると彼女らの姿は忽然と消えていた。同時に、フットボール大の円盤が街の上空をゆっくりと横切るのを目撃したという。

1週間後の7月17日、松村氏は同じ場所で、あの時の女性と再会する。誘われるまま入った喫茶店で、彼女は自らを「日本に配属された宇宙人」であり、横浜に3人、東京に4人の仲間がいると打ち明けたという。

さらに3日後の7月20日、東京・渋谷の道玄坂で、松村氏は「品の良い外国人紳士」に肩を叩かれる。一目でそれが宇宙人だと悟ったという、この人物こそ、日本に駐在する宇宙人たちの「キャップ(代表者)」だった。キャップは松村氏に一つの約束を告げる。「7月25日、高尾山頂に円盤が飛んだら、あなたを同乗させる」。

円盤への搭乗、そして母船へ

1959年7月25日、高尾山頂では、CBA全会員によるテレパシー交信の一斉実験「第一回全日本コンタクト・デー」が行われていた。約50名が夜通し空に呼びかける中、松村氏は西の空に浮かぶ巨大な円盤を目撃する。

翌26日朝、山頂から下りた松村氏は、テレパシーで指定された場所へ向かった。そこには渋谷で出会ったキャップを含む3人の宇宙人が待っていた。目の前に着陸していたのは、直径約30メートルの円盤。側面が開き、伸びてきた梯子を上って中に入ると、乗員12人のうち日本語を話せたのは1人だけだったという。

円盤は離陸から約15分で母船に到着した。母船内部は渋谷や新宿の大通りを思わせる広い通路が続き、最終的に案内されたのは畳100枚分ほどの広さの部屋。半円形に並んだテーブルには宇宙人たちが着席し、中央には長老と思われる人物が座っていたという。

告げられた3つのメッセージ

緊張しながら着席した松村氏に、右端の宇宙人が英語で語りかける。問答はすべて英語で行われ、その内容は次の3点に要約されるという。

  1. 地球の大変動が近い将来に迫っており、常時観測を行っているが、正確な時期は宇宙人にも分からない。あなたはその準備のために選ばれた
  2. 将来の地球再建のために、一人でも多くの人を他の星に避難させたい
  3. 決して混乱を招かないよう、慎重に事を進めること

用意していた質問を切り出す余裕もなく、この話題だけで会談は終始したという。話し合いの間には、刺身に似た色鮮やかな果物と、グレープジュース色の飲み物が振る舞われた。地球を離れていた時間は、往復であわせて約7時間に及んだ。

発表を止めたのは、宇宙人自身だった

母船から戻った松村氏の報告を受け、CBA内部は騒然となった。この重大な情報を、いかに多くの人に、混乱を招かずに伝えるか。連日の討議の末、たどりついた結論は「新聞を通じて事実を発表しよう」というものだった。

しかし1959年8月18日、新聞発表に向けた打ち合わせに参加するため新橋駅に降り立った松村氏の前に、再び宇宙人が姿を現す。告げられたのは、「新聞を使ってはいけません」という制止の言葉だった。

結局CBAは、新聞という公の手段を諦め、8月22日の総会で「自由意志で地球再建を望む人にだけ、慎重に伝える」という方針に転換する。会員の中から条件に合う人物を探すため、あえて非公式な二次会の場でのみ、名前を伏せた形でコンタクトの事実が共有されたという。

この記録をどう読むか

天宮氏はこの記録を、CBAという団体が実際に何を語り、何を体験したとしてきたかを伝える「内部資料」として著書に収めている。目撃事例のように第三者による裏付けが可能な性質のものではなく、松村氏本人の証言と、CBAが発行した会報に基づく記述である。

その一方で、この出来事がその後の「トクナガ文書」や「1960年大変動」騒動へとつながり、当時の新聞報道を巻き込む騒動に発展していった経緯は、単なる個人の体験談にとどまらず、日本のUFO研究史における一つの転換点として位置づけられている。

まとめ

1959年、松村雄亮氏が体験したとされる一連のコンタクトは、UFOを「見る」段階から「交信する」段階へと踏み込んだ、日本UFO史でも異色の記録である。地球の危機を告げるメッセージと、それを公にすることを制止する宇宙人という展開は、単純な目撃談にはない、独特の緊張感をはらんでいる。

この出来事の詳細な後日談(トクナガ文書や新聞報道との関わりなど)は、天宮清氏の著書『日本UFO研究史』に収録されている。

日本UFO研究史の書籍カバー画像

『日本UFO研究史』
天宮清(著)/ナチュラルスピリット刊

FAQ

松村雄亮氏とは誰ですか?

コンタクトはいつ、どこで起きましたか?

宇宙人からどのようなメッセージを告げられましたか?

なぜ新聞発表が中止されたのですか?

この記録の出典は何ですか?

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