悟りを理解した、その先で――『知るべき知識の全てⅡ』が照らす、最後の誤認

悟りや非二元を理解しても、なぜか静かに残り続ける違和感がある。
それは「理解が足りない」からではない。
理解している“私”が、まだ前提として残っているからだ。

あなたはすでに、非二元や目覚めという言葉を知っている。
「思考と観照者の分離は幻想だ」と理解し、瞑想や内観を通じて無常と静寂を見つめてきた。
そして、いくつもの境界線を越えてきたはずだ。

しかし――
どこかにまだ微細な違和感は残っていないだろうか?
それは決して小さな誤りではなく、まだ根源的な地点に留まっている未解決の問いかもしれない。

本書『知るべき知識の全てⅡ』(ヘルメス・J・シャンブ 著)は、そんな「非二元の理解が進んだあなた」にこそ必要な一冊として書かれた。
悟りとは何か、ではなく
悟りを悟りたがる構造そのものを解体していく道筋を提示する。

「気づいている私」という極めて微細な誤認

多くの非二元の探求者はこう感じる。
「私は気づいている側に立っている」
「私は観照者として、思考と世界を見ている」

しかし本書は問う。
“その私はどこにいるのか?”

この「私は気づいている私」という感覚は、理解が深まるほどに静かに、巧妙に残っていく誤認だ。
それは修行や哲学の教えに反するものではなく、むしろそれらと密接に結びつき、非二元の理解を表層で留め続ける。
本書はその地点を丁寧に、そして徹底的に照らす。

「気づきがある」という直接的な事実は在るが、
気づいているとされる主体は、どこにも見出せない
という地点にまで読者を導く。

この気づきは、ただの状態でも、境地でもない。
言語も思考も越えた「そのままの在る」が立ち現れる地点なのだ。

瞑想・技法・修行の先――さらに深い“誤認の終焉”

瞑想は静寂や空性を感じるための道具として有効だが、そこに残る「技法の私」は依然として対象化される。
本書ではこうした全ての技法は、否定されるのではなく 観察された先で自然に消えていく

・瞑想の深さを求める
・静寂の持続を願う
・非二元の概念を理解しようとする

こうした動きはすべて、「まだ何かが欠けている」という前提に立っている。
本書はその前提を問い直し、そこに立っている主体そのものの誤認を照らし出す。

赦し・愛・一体感――その前にある真実

多くのスピリチュアルな教えが「愛」「一体感」「癒し」を語るとき、それは結果として理解されがちだ。
しかし、そこに至る前提――
「誰が愛するのか」「何が一体なのか」という問い自体が、まだ分離の前提を維持している可能性がある。

本書はこう言う。
真の一体感は、対象が消え去った後に自ずと現れる。
主体と対象が分かれているという前提が失われたとき、初めて愛も赦しも現象として立ち上がるのではなく、ただ在るものとして現れる。

これは単なる平安でも、感動でもなく、
誤認が終わったという事実の発露である。

読了後に残るもの――何かを得た感覚の欠如

本書を読み終えて、読者はこう言うかもしれない。
「何かを得た感覚がない」
そして同時に、
「何かを失った感覚もない」

これこそが本書の核心だ。

悟りを達成するという感覚は、そもそも 達成すべき何かがあるという誤認 に基づいている。
その誤認が終わったとき、初めて真の静けさと自由が残る。

これは理解でも体験でもなく、
誤認の終焉という事実そのものだ。

非二元の理解が進んだ今だからこそ読むべき一冊

『知るべき知識の全てⅡ』は、
非二元を学び、瞑想し、静寂を理解した読者を対象にしている。

なぜなら、
真実は理解されるためにあるのではなく、終わるためにある
という地点にまで読者を連れて行くからだ。

もしあなたが、

  • もう「悟りを得る」という目標を持ちたくない

  • 微細な分離が残る自分に違和感を感じている

  • 非二元の深い地点を知りたい

と感じているなら、この一冊は あなたの誤認を終わらせるための道筋を示すだろう。


 

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ヘルメス・J・シャンブ 著
『知るべき知識の全てⅡ』―瞑想会における質疑応答編

 

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